ラベリング

  • 2008/04/01(火) 00:00:00

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寝る前に睡眠導入剤代わりにということで、
遅ればせながらではあるものの東野圭吾の『手紙』を
少しずつ読み進めていたのですが、先日読み終わりました。

まあ、睡眠時間をさらに削ることになったけれど、
それ以上になんだか言い表せない余韻が胸に残っていたりします。

ということで、今回はそれを読んで思ったことを。




内容を詳しく書いてしまうと、
まだ読んでいない方に申し訳ないので、
概要だけ、書きますと。


強盗殺人を犯した兄を持つ弟。
彼は犯罪加害者の家族というレッテルに苦しめられ、
恋愛や就職、夢さえ諦め続けなければならなかった。
その一方で兄からは毎月欠かさず弟の身を案じる手紙が届く。
そんな彼が下した最後の決断は…。

という話。


この『手紙』という小説を読んでいてまず思ったことは、
自分は、大学時代、『刑事政策』という分野を専攻していたのですが、
その学問における概念の、「ラベリング理論」そのものだなあってことです。
(ていうか、担当教授がこの理論を初めて日本に持ち込んだのは
 自分だと豪語していたっす)

ちなみに、ラベリング理論というのは
たとえば、ある人が出来心から万引きをしたとして、
その後、誰かから「あの人は万引きをしたことがある」というような
社会的なラベルを貼られることによって、
貼られた人物の主観面に大きな影響を及ぼし、
それが第二の犯罪の原因となっているのではという考え方です。


で、この本を読みながら、本人は犯罪とはまったく関係ないにも関わらず、
差別をするのはフェアじゃないと憤りを覚えたりしていたのですが、
そのうちに自分も差別する側のその仲間なのではないかと
ふと、気づかされてしまったのです。

で、何が言いたいかというと。


これは何も犯罪者の家族に限ったことじゃないのではないかということ。
というか、結局、世の中レッテルの張り合いなんじゃないかと。

その人の外見や、普段見せているキャラクター、
また、置かれている立場や過去の経歴などから、
我々はその人は「こういう人だ」というレッテルを簡単に張り付けてしまったりする。

その人の一面しか見ていないにも関わらずに、だ。

そして、最悪なことにそれがいいレッテルか悪いレッテルかで
社会的な位置付けまで定められてしまうことすらありうる。



しかし、有り得ないと思っても人にはいろいろな顔があるかもしれないのである。
いや、間違いなくあるのである。

たとえば、仕事人間だと思っていた上司の趣味が実はバンドだった。
とか。
たとえば、とてもしっかりした人だと思っていた女性が、
実はとても繊細な人だった。
とか。
そして、たとえば、外見に似合わず、実はとっても犬好きだったりする自分。
みたいな感じで(笑)


つまりは、自分に見えている世界とは
全てを多角的に俯瞰したものであることなど決してなくて
その世界の一側面でしかない。
そして、それは人を観察する上でも同じこと。

だから、我々は経験を積めば積むほど
人を外見や背負っているもので判断しがちであるが、
そういうラベリングは人を理解するという行為から
最もかけ離れた行為だということを肝に銘じるべきなのだと思う。

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